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「鏡の外でも日曜日」の巻

二〇〇二年一月四日

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■ 改心の一撃

昨年十二月刊行の殊能将之『鏡の中は日曜日』。久々に伏線部分を読み返した傑作であった。前作『黒い仏』で肩すかしを食らっていたので今回の出来は感銘を受けた。ということで以下『鏡の中は日曜日』のネタバレ含む感想を記すので未読の方は注意。既に読了した方だけ読んでいただければ幸い。

■■ここからネタバレだ■■





『黒い仏』は大いなる前振りでしかなかった。更に言えば『美濃牛』すらも更なる前振りでしかなかった。全てはこの『鏡の中は日曜日』のために記されたものでしかなかったのだ。

手に取れば帯には次の惹句。「かくて閉幕――名探偵、最後の事件!」。この手の惹句を見れば幾つかの作品がすぐに連想され、物語の構造を読む前から想像できたりもする。どうせ石動の最後の事件ということなのだろう、そうたかを括っていた。が、ページを開き登場人物一覧を見ると石動の名はない。名探偵は「水城優臣」とある。殊能作品にこの名の探偵はいないので、いきなり名探偵最後の事件ということなのであろう、そう思った。90年代初頭には麻耶の『翼ある闇』の副題が「メルカトル鮎最期の事件」であったので、その手の趣向かと思われた。しかし、蓋を開けてみれば石動はしっかりと登場していた。これはどういうことだろう。そう思いながらも俺は読み進めた。

確かに「名探偵最後の事件」であった。しかし、それは水城優臣にとっての最後の事件であって石動の最後の事件ではなかった。この手の惹句はやはり真正面に受け取ってはいけない。講談社ノベルスなら尚更だ。それはそれでいいのだが、この作品における肝要な部分は名探偵最後の事件などというものではない。作中作『梵貝荘事件』である。事件が起こったのは1987年夏。そう、新本格ムーブメント(死語)勃興の時だ。綾辻が『十角館の殺人』でデビューした年である。「梵貝荘事件」は当時の新本格そのものの中身である。いや、綾辻作品そのものといっていいだろう。奇妙な形の館。閉ざされた空間。不可能興味。本格推理における典型的ともいえる人物配置。人物造形の非現実性。トリック重視における現実的不自然さの未追求。これらは当時の新本格そのものだ。記述者として描かれる鮎井郁介の作品リストも綾辻の書作品名に通ずるモノがある(蛇足ながら登場人物の人名の謎は作者のページにて明かされているので検索などして調べてみるのも一興。つーかURL忘れた)。

当時は俺も夢中になって読み耽っていたような新本格の世界が「梵貝荘事件」にはあった。今ではすっかりこの手の趣向は飽きられており、新本格の作家たちも作風を変容させている。俺は別に新本格が嫌いになったというわけではないのだが(今でも好きである)、今冷静に振り返ってみればやはり典型的本格推理的空間というのに違和感は禁じ得ない。やはり読んでいて不自然さを感じてしまう。この手のものはたまに読めばいいだろうが、気合い入れて読むものではないな、という感じがする。現代本格は古典的様式美だけに囚われていてはいけないということなのだろう。時代の要請、時代の移ろいなどというという言葉は使いたくもないのだが、空間と時間に合わせて本格推理も変容していかなければならないだろう(さも麻耶のように<変容過多か?)。

殊能は批評的精神でもって、作中作に新本格的世界を放り込んできた。「今読むと笑っちゃうよね」という作者の声が聞こえそうだ。作中作では「奇妙な館」であったものが現代での石動の視点からすれば「普通じゃないか」となる。これこそが作者の意見を端的に 表しているだろう。石動は暑い中の探偵行に不平を漏らす。しかし、作中人物たちは暑さを主張しない。石動は「名探偵」という言葉に羞恥の念を抱く。しかし、水城はあくまでも「名探偵」然として振る舞う。差異は明確に提示された。殊能は新本格的要素乃至本格要素を嫌ってはいないだろうが(嫌いならばここまでの模倣はしないだろう)、盲目的な愛情は抱いていないようだ。冷静に分析しつつ執筆している。

現代本格を語る上で切り離せない要素は「探偵の存在について」である。俺も卒論で書いたが、「後期クイーン的問題」に始まる諸々の探偵にまつわる問題である。探偵は物語世界において絶対か、事件の一要素として組み込まれることはないのか、と言ったものであるが、これを語ると長くなるので割愛。『鏡の中は日曜日』においては「名探偵は名探偵として振る舞わなければならないのか」ということだ。そうでなければならない、と判断したのは鮎井郁介で、彼は盲目的に名探偵の存在を信じ、自己内で神格化してしまったために命を落とすことになった。鮎井にとっての名探偵であった水城は自ら引退宣言を行うことにより名探偵を殺した(これで「名探偵最後の事件」ということだろうが、惹句の割には陳腐だ。どうせ編集者が書いたのだろうが)。

名探偵といえば名刺にも記されている「名探偵」石動といえば、こいつは実際何もしていない。作中作の水城の解決は誤りだ、と確信し水城の元に乗り込むもあっさりそれを否定される。結局作中作の解決は正当な解決だったわけであるが、解決しない「名探偵」というのも面白い。まるで烏有のように作品内ではどうでもいいような扱いな石動である。それっぽい行動(調査)をしているだけ石動はましであるが。烏有は本当に何もしていないからなぁ。特に『●●の●●』(なんかしたかもしれないがもう話忘れた)。石動は『黒い仏』でもなんもしとらんから、『美濃牛』以外何もしていないことになる。恐ろしい名探偵であることよ。

と、なんだかまとまらぬので終えることにする。まぁ評論書くんだったらもうちょいしっかり書くけんども感想だからねぇ。まぁ、再読して発見できる伏線とかがあるんで読み返しても面白い作品である。再読して一番面白かったのは麻耶の『鴉』だけんどもね。ちなみに新本格勃興期の事情を知っていると更に面白かったりしますんで、当時の作品の解説とかを読んでみるのも一興かと思われ。

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『鏡の中は日曜日』という表題について考察しようとしたのだが、結局まとまらなかったので中止。アルツハイマーってことでいいのかのう、やはり。そう考えて俺の場合「鏡の外でも日曜日」ってつけたんだけどんもね。
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